2009-02-05

東京エスニック料理読本


人生の一瞬にしかない若い力。その直前の時代には無い、その直前の世代には出来ない、角度、深度、感度。社会に頭角を現す未来を予感させる鮮度に時代は揺さぶられる。そんなまぶしい時代のご来光を、僕は、建築でもインテリアデザインでもグラフィックデザインでも、もう20年以上拝んではいない。唯一、頭と魂を酷使したアートの確信犯、100年後にも燦然と残りうる村上隆を除いては、たとえそれが時代の旬であったとしても、みなぎる健全な野心、若輩力のまばゆい鮮度を、ITLのデビュー、タイクーンのデビューを最後に。

僕はいつも思う。我々は100年前に建造されたNYの摩天楼の写真集を買って見たり。コルビジェやライトの作品集を眺めたりしては、スゴイと感嘆する。その我々は世界一建築物であふれる東京で、日々建築を作り続けているけれど、いったい100年後の人たちにとって、100年前のこの建築はスゴイと感嘆してもらえる歴史的建造物を創造しているのだろうかと。事は建築の大小、カタチとしての存在ではない。日々進化するコンピューターを駆使し、たくさんの世界情報を瞬時に容易に仕入れられて、超高学歴とたくさんの世界体験を持つ我々は、いったい毎日、何を慌しくして建築・デザインしているのだろう。僕はいつも嘆く。グラフィック、ファッション、写真、音楽、小説、演劇、映画、アート、100年前なら、そんな職に付く人は稀だった。しかしこの20年、コンピューターとインターネットを空気のように手にした自由社会。右も左も、みながクラブDJで、グラフィックデザイナーで、フォトグラファーで、ファッションデザイナー。みーんなミュージシャンで、ブログ作家で、料理研究家で、建築家で、インテリアデザイナーだ。みーんながアーティストの時代。雑誌もネットもアートな情報が垂れ流される。アートって、アーティストって、そんな誰でもお手軽お気軽楽チンな垂れ流されるものだった?選択の自由、挑戦のチャンス、その自由の拡大は大歓迎。しかし、アーティスとって?クリエーターって?何だっけ?100年後に君のアートは残ってる?旬の記憶としてでも。ただの自己満で地球悪な事してんじゃない?って心底、声高に檄を飛ばしたくなってしまうのだ。いてもたってもいられない突き動かされる命がけの真剣な遊び。恋の炎のようなアートを見たい知りたい感じたいのは僕だけだろうか。

東京エスニック料理読本 馬上精彦 冬樹社 1984初版。 この1冊から今日、我々がふつうに使うエスニックという言葉や、エスニック・フードの飲食店が東京に生まれた、無国籍&エスニック料理の起源。馬上精彦と玉村豊男の対談をはじめ、往時のカルチャータレントたちが結集してユニークかつクリエイティブな食の横断的創造がはじまった。

そして、どうしても記さなければならないのは、この著作を最後にフェイドアウトした伝説の「センチメンタルシティースタジオ」の事だ。伝説とは彼らの事を言うのだろう。検索しても断片しか出てこないのだから。それもレアな当時の暗号を入力してやっと。「センチメンタルシティースタジオ」。一言でいえば、インテリアデザインのYMO。日本のインテリアデザイン、今でいう、カフェバー、クラブ、エスニックレストランなど、飲食のインテリアデザインをエキサイティングなストリートカルチャーにした革命集団。そんなレアでコアな時代の旬の始まりは、LAからだった。1980年ぐらいではなかったろうか。創刊間もない雑誌「ブルータス」に、変形の縦長の広告が見開き左右に何ページにもわたって登場した。それはLAにオープンする今でいえばカフェ・バーなのか、「チャイナクラブ」というオリエンタルテイストのクラブ・レストラン。ネーミング、広告の出し方、インテリア、仕切りサービス、とにかく全てが新鮮でクールだった。新鮮という言葉がまだ鮮烈に衝撃的に効いた時代。後に空間プロデューサーとなるシーユー・チェンと、安倍讃平らによって企てられた「チャイナクラブ」は、毎日がレッドカーペット。 世界のカルチャーセレブリティーたちのスノビッシュな社交場の幕開けだった。そのオープニングに集まったアーティストたちの名を挙げれば書ききれないほどの。その勢いのまま80年代は、彼らの手によって、「東風」(トンフー)六本木を皮切りに、馬上、和田、楠木氏らが加わり、遊ぶ空間を演出するインテリアデザインのYMOたちが駆け抜けた。日本のオリエンタルなエスニックフードはここから始まった「クーリーズ・クリーク」(霞町)。歩道にぽつんと地下鉄の出入り口のようなキャノピーがあるだけで、唯一の目印は小さなタクシーの行灯に印されたロゴ。地下に下りればそこはクラブの起源「タクシーレーン」(高木町)。映画のスクリーンをインテリアに取り入れた、フランス系植民地にありそうなコロニアルテイストの将校クラブを彷彿させる「シネマクラブ」(神宮前)。映画館の椅子、手術台、手術用照明器具、全てが用途の違う場所から来たモノたちで再構成された小さなディスコ「クライマックス」(高木町)。今日、世界を回るスシ。その世界から見た寿司をインテリアした、和を洋に仕立てた傑作「スシバー彩」(渋谷)。グリーン系のテラゾーの床に、当時ファッションで大流行したストーンウォッシュを革に応用し、その傷めた革を座に使いコルビジェの代表作LC7をパロディしちゃうエスプリ。しかも本来、銀光るクロームを渋い塗装にして、さらにバーカウンター用に足長まで作ってしまった。クールバーの始まり「バー・スワミー」(代官山)。矢継ぎ早に登場したそれらは、当時の最前線にいたコピーライター、カメラマン、アートディレクター、スタイリスト、ファッションデザイナーなどなど、業界人たちがナイトクルージングする店々の数々。まだみんなアーティストになっちゃう学芸会社会の以前は、明らかに一線を隔した、若さと才能がみなぎる人たちだけが遊べた空間だった。隠れ家という言葉が存在できた一瞬だった。「センチメンタルシティースタジオ」は、その時期に居合わせた一握りの才能たちだけが知る幻の東京ナイトクルージングスポットを記憶に残して、70年代後半から80年代初頭までのわずか数年間の活動で解散していった。

その後は、リーダー馬上精彦氏はクールから身を引き大島に渡りエコ時代を先駆ける。現在はストローペイルハウスの日本版、「藁の家」の建築家。安倍讃平氏は、西麻布で東京アートシーンを燃焼させる「バー・アムリタ」を営み。元々国際派だったシー・ユー・チェン氏は創造的商業をコンサルティングするCIAを1980年に立ち上げ、最近の著書「インプレサリオ」で、その発展的健在振りを見せてくれた。

幸いにも、彼ら一回り以上も先輩達の一旬を遊ばせてもらえた僕は、センチメンタルシティースタジオの馬上、和田、楠木氏らの協力を得て、27才の1983年、初めてのインテリアデザインでデビューした。もはや幻で伝説の「スシバー・レットポーギー」1983年 札幌。旬間の鮮度は永遠に記憶に輝く。

4 件のコメント:

履歴書の見本 さんのコメント...

http://www.mensetsu-check21.net/

安土実 さんのコメント...

はじめまして、
そうか、1983年まで でしたかね〜
センチメンタルは 後半の かなりを 馬上さんと デザインしてましたよ。みんな 辞めましたけど ギリギリまで 続けるように 馬上さんに スタッフ紹介したり したからね〜
センチメンタルは 知る限り 日本一の センスの 空間デザインスタジオでしたね。
サンベイさん
 楠木さん 亡くなりましたが かなり 一緒に 仕事してましたよ。
馬上さんの センスでしたね。馬上さんって 謎で どんな 青春だったか?
他の人の事は 知ってるんですか、

安土実 さんのコメント...

はじめまして、
そうか、1983年まで でしたかね〜
センチメンタルは 後半の かなりを 馬上さんと デザインしてましたよ。みんな 辞めましたけど ギリギリまで 続けるように 馬上さんに スタッフ紹介したり したからね〜
センチメンタルは 知る限り 日本一の センスの 空間デザインスタジオでしたね。
サンベイさん
 楠木さん 亡くなりましたが かなり 一緒に 仕事してましたよ。
馬上さんの センスでしたね。馬上さんって 謎で どんな 青春だったか?
他の人の事は 知ってるんですか、

安土実 さんのコメント...

はじめまして、
そうか、1983年まで でしたかね〜
センチメンタルは 後半の かなりを 馬上さんと デザインしてましたよ。みんな 辞めましたけど ギリギリまで 続けるように 馬上さんに スタッフ紹介したり したからね〜
センチメンタルは 知る限り 日本一の センスの 空間デザインスタジオでしたね。
サンベイさん
 楠木さん 亡くなりましたが かなり 一緒に 仕事してましたよ。
馬上さんの センスでしたね。馬上さんって 謎で どんな 青春だったか?
他の人の事は 知ってるんですか、

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