人生、何かが動き出す時って、必ず鍵となる物・事・人との出会いが立て続けにやって来る。それも、思いもよらない方向から。ヨーロッパならともかく、アメリカの建築家では珍しいペーパーアーキテクトだったニール・ディナーリが、にわかに日本で話題となったきっかけが、1989年、東京フォーラム設計コンペで、彼のプランが佳作に選ばれたことだった。僕はかねてより彼の空間、というより表現に、どこか幼なじみのような親近感を覚えていた。それは、世代が近い事から来る成長期に得た文化的時代背景を共有している事なのか。いや、同世代建築家で最も尊敬するヘルツォーク&ムーロンらに、そんな同類感を覚えはしないから、やっぱりピンポイントで通じる何かがあるのだろうと思っていた。そんな折の、1996年9月~10月にかけてギャラリー間で、彼のエキシビションが催された。それも、ペーパーアーキテクトとしては、作品本まで出版されるという異例な扱いだ。早速、会場に出向いてみて、胸の痞えはあっさり下りた。その親近感の正体とは、記号論を専攻した身として感じるものだった。彼の吐く、建築の語り口、見せ方は、シンボリックな記号をグラフィカルに綴った表現なのだと。およそ、既存のアカデミーな建築界の言い回しではない事なのだと。わかりやすく言うと、例えば、法廷という専門世界で交わされる言語は硬く難しくわかりにくい。それを、我々が日々親しんでいるセブンイレブンのサイン(記号)やベンツのマーク(記号)を使って語ると、意図、イメージがぱぁーっと広がり一気に伝わる。つまり、わかりやすい例え(サイン)を連ねて文章を書いているみたいな手法。もう少し言えば、記号(サイン)性のある例えで、難解な原文を翻訳して伝えているってわけだ。そういう彼の立ち位置ゆえ業界では異端だろう。その一点が僕と繋がっていたのだ。なるほど、実作品が少ないわけだ。ところが、おりしも1996年の日本は、インターネットが急速に普及しだした矢先。彼の発案したパソコンのブラウザやアイコンを引用したりのグラフィカルな通訳表現が、ジャストヒット。日本のグラフィックデザイン、雑誌、書籍の装丁、編集デザイン、果てはテレビの映像デザインにまで引用、応用される大ブレーク。皮肉にも、彼の建築言語の通訳手法が、やっと時代に、思わぬ形で通じたわけだ。
会場で仕入れた、彼の唯一の作品本を眺めながら迎えた1997年春、思いもよらない札幌市から、サッポロコレクションのリニュアル仕事が舞込んだ。それは時間も予算もなく、過去のしがらみだけがある難易度5つ星の仕事。当然、ヤリガイ満点で臨んだ出鼻、僕は偶然の勘違いで、大変失礼な話、人違いからデビューしたてのITL(インテンショナリーズ)鄭秀和と出合ってしまった。しかし、その彼が僕に自己紹介しだしたグラフィカルな建築世界こそ、待望していたニールな表現とは運命の悪戯。たちどころに意気投合して、僕はコレクションの空間を彼に任せた。そして、その出会い頭の勢いは、彼の仕事仲間、サイレンスファンデーションの音楽アーティストでもあるグラフィックデザイナー下田法晴に、コレクションのオリジナルCDデザインを担当してもらうことにつながるのだが。何と下田君こそ、写真の「インタラプテッド・プロジェクションズ」を装丁、編集デザインしたデザイナーだったとは。類は類を呼び。奇遇は巡り巡り。ご縁の連鎖は大団円。お陰さまで、コレクションは記憶に残る革命的出来栄えだったそうな。
早いものであれから12年。今ご覧頂いているブログのテンプレートも言わば、ニールの記号。そして51歳になったペーパーアーキテクト、ニールの実建築がNYで話題となっている。
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早いものであれから12年。今ご覧頂いているブログのテンプレートも言わば、ニールの記号。そして51歳になったペーパーアーキテクト、ニールの実建築がNYで話題となっている。
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