2009-02-10

グルメの食法


団塊の世代は、ご承知の通り日本の人口構成では最大組。その大量人口も、すでに大量退職、大量年金需給者となって、最後の最後までお国に迷惑千万な方たちだ。というのを、わかりやすく乱暴に語れば、60年代後半から70年代にかけて20代前後の大学生だった彼らは、かつて、ソ連、中国に端を発した共産主義革命が、東欧、ドイツ、そしてアジアの朝鮮半島、ベトナムへと拡大していった世界同時革命の潮流に盲信し、反体制の狼煙を掲げ、打倒国家権力!目指せ暴力革命!と、革命闘争を過激に暴走エスカレートさせていった学生運動時代の当事者世代。当時、全国各地の大学という大学は、彼ら学生たちによってバリケード封鎖され暴力的戦場と化していた。彼らのいう国家権力との攻防戦は、やがてその象徴、東大安田講堂占拠立てこもり事件、各セクト間の内ゲバ殺人、殲滅という殺人テロ、浅間山荘事件へと突き進み、当然の帰結ながら自滅を辿っていった。ところが、ノンポリ糾弾!と、アジり、デモり、ゲバルトしては、日本中を壊しまくった彼らは、学生運動の終焉と共に、ヘルメットと角棒をスーツとネクタイに変え、気がつけば通勤電車を満員電車にしていた。それは、今の中国と同様に、大量の人数分だけ物が売れる大量生産、大量消費の主役と豹変し、ニューファミリー世代と呼ばれて消費を謳歌する顛末。かつての言説、行動に対する自己総括も責任の所在も明確にすること無く、数の論理の開き直りとも言えるギャグの名言「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を流行語にして、とうとう人生の黄昏まで無責任極まりない、やりたい放題をまっとうした世代。しかし時代の本当のキーマンは、彼ら闘争の多数派ではなく、少数派にあった。当時の大学生を100とすると95%は、このいい加減な革命盲信・日和見・無責任・闘争世代。一方、残る5%は、そんな世情にあった当時の大学には居られず、そのほとんどが国外へ遊学に出る。何故なら学内では、総括という名の吊るし上げ、ノンポリ糾弾を受け、そもそも大学が封鎖されていたからだが。その遊学組みを大雑把に分ければ、1.社会のエスタブリッシュメント、裕福な子弟。当時、社会的地位のある親世代にとっては、自分の息子、娘たちが学生運動に参加している事は、家名や就職に汚名や社会的不利益を受けるという世情にあった。2.ただ単純に最大公約数を嫌う天邪鬼。3.純粋に美術、音楽、芸術、学術、など、エンジニア、クリエーター、アーティスト志向。4.各タイプを横断して存在したヒッピーかぶれ。そんな事情の違う5%の4タイプたちは、学生運動の鎮火後、大学が正常に機能しだした70年代初中期から順次帰国をしだす。世界に散らばった遊学組みは、未知のロンドン、パリ、ニューヨーク、LAなどで、当時のファッド(風俗)、今でいえばストリートカルチャーを体感し、人脈とカルチャーと語学力、そして国際感覚を身に着けて帰国。そんな5%の少数派が、その後の70年代中後半から80年代初頭に、自分たちのファッション、フォトグラフ、グラフィック、ムービー、ミュージックを紡ぎだし、社会のファッション(流行)を作り出す。世界にあって東京にない、音楽を、ファッションを、インテリアデザインを、飲食の新しいスタイルを次々と生み出し、そのコンテンツを残る95%、かつてのゲバ棒組みの大量消費者たちによって消費される経済の構造が作られた。付け加えれば、95%の中で最もたちの悪い闘争のリーダー格たちは、その後、日本のマスメディアに多数入り、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌を通じて、今尚、報道の中立性という名の元に、かつての反体制的姿勢で、この20年間に14人もの総理大臣を瑣末な言葉狩りで引き摺り下ろし、国内世論はおろか、近隣アジア諸国を巻き込む国際世論まで混乱させ続けている。以上が乱暴すぎる経緯の概要。 さて、以上を踏まえて出来事を眺めると、時代の中での意味・価値・位置が読めてきます。

グルメの食法 玉村豊男 TBSブリタニカ 1991初版 1500円。 多作家である玉村豊男氏の著作の中で、唯一残した1冊。といっても、彼のデビュー作「パリの雑学ノート」1967初版。と、「回転寿司は世界を回る」2000年初版。都合3冊しか手にしていないが、この「グルメの食法」こそ、僕に日本文化は人類文化史のガラパゴス論を書かせるきっかけとなった、僕的食文化の歴史認識に確信を持たせてくれた貴重な手引書だった。ここで、前説が、非常に長い理由がお分かりですか? 彼こそ、革命団塊人の中の希少な5%組み、1+3の典型なのです。紛争の日本を離れて遊学から帰国後、「パリの雑学ノート」で華麗にデビュー。その後、70年代後半から80年代にかけて、ニューファミリーたちの飲食生活のスタイルをリードしていく指南役として大ブレーク。正統的、グルメ、グルマン、美食家の代名詞となって、1983年には長野へ移住。2003年には、念願のワイナリー「ヴィラデスト・ガーデンファーム&ワイナリー」を開設して現在にいたる。「パリの雑学ノート」は、今でいえば「パリノルール」。当時は、そもそも海外情報が何も無い時代、唯一の観光ガイド本にも紹介されない、ネイティブな街案内を、若い日本人の目線で、日本とは大きく異なる真逆文化の集積地パリのディティールを克明に記した、リアルな生活案内書の草分けとなる。その後の、雑誌、旅行、飲食、空間と、様々な分野に影響を与え、グルメブームの起源となった歴史的名著。

2月5日「東京エスニック料理読本」で紹介した、センチメンタルシティースタジオの面々も、玉村豊男氏同様に5%の希少な遊学組み。幸いにも後輩世代の僕は彼らの足跡と重なる事ができたが、さらに、「パリの雑学ノート」でカルチャーショックを受けた後輩世代は、2003年、玉村豊男・画家活動10周年の記念祭「玉祭」を企てさせていただくご縁に恵まれ、報酬とは別にボーナスとして玉村氏から「オデオン交差点」を頂く事になろうとは。人生は本当に面白い。5%団塊との巡り合わせもさることながら、とうとうひょんなん事から「団塊の世代」の名ずけ親、堺屋太一氏と巡り合い、昨年から愉快な企てをさせて頂いている。これって35年におよぶ長年の天敵と和解?本当に一件落着?

0 件のコメント:

QLOOKアクセス解析