入場のルールは、ただ1つ、クワイエット。ドアの向こうは、夜霧のように霞む煙草のけむり。ヤニで燻された重低い音のカンバスに、ソプラノサックスの絵筆が散らす気高い音のアドリブ。恐る恐る踏み込んだ、ほの暗い「ファンキー」で、僕は未知の音渦に飲み込まれて五里霧中。初めて入ったジャズ喫茶で、初めて聴いたジャズが、ジョン・コルトレーンのマイ・フェバリット・シングスとは。無垢なド素人に異彩なド玄人の音の洗礼。スイングとトランスを体に刻む衝撃のジャズデビューだった。1971年、16歳の秋。伝説のジャズ喫茶、吉祥寺「FUNKY」。この日から大学2年の二十歳まで、革命とジャズと煙草のけむりが、僕を本格的に黄昏の闘争時代へトランスさせた。そんな高1の貪る荒い好奇心をさらに炊きつけたのが、写真の「ジャズよりほかに神はなし」 平岡正明 1971年初版。それは、開けてしまった新世界の手引書。学生運動の渦潮が沸き立つ世相を、ジャズという時代の音楽のアングルから、シャープにフォーカスして見せた驚きの解説書だった。
高校3年間をすごした吉祥寺をはなれて35年。東京に都落ちして5年がすぎた。そんな頃合の2007年晩秋、たまたま、EX ラスト・ラバー が舞台公演の仕事で吉祥寺に通うことになったのに便乗して、吉祥寺のホテルを予約した。近くにいながら、一度も近づいた事のない、あの頃。1泊2日のセブンティーンをなぞる旅だ。結果は、まるで「あの頃ペニー・レインと」みたいに微笑ましくアーカイブ。写真は、そんなタイミングに見つけた、平岡正明の最新刊 「昭和ジャズ喫茶伝説」。当時の師は、ご健在で活躍されていたご様子だ。ただ、「あの頃ペニー・レインと」のような鮮度あるOLD NEWではなかった。あらためて、そのまんま世代には、やはり頼れないってカンジっす。ならば、相倉久人の「機械仕掛けの玉手箱」(1975年)を探してみよっと。超離婚貧乏になるまで、後生大事に初版を抱えていたんだけどなぁー。5トントラック2台分の「オカダ文庫」にネ。◆そんなこんなの詳細は、「ゲバラの日記」と「青年は荒野をめざす」をご一読あれ。お奨めです。うざったいほど濃厚な70年代初頭を覗けますよー。オカダ節@大声(たっぷりに)。
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